コミットメンドデバイスとしての憲法
私は法学部卒の法学士だが、法学については専門家であるというわけではない。日本の学部教育ってそういうものだよねと言ってしまえばそれまでだが、社会科学系の学部の中でも特に法学部はつぶしが利くというか、専門的になろうと思うとその上の法科大学院から法曹という専門教育のセグメントもあるので、学部教育は一般的になってしまうのも無理からぬことではある。
とはいうものの法学について何の知識も興味もないということでもない(5年も勉強したので、苦笑)。ここで話題にしたいのは今般の参院選の結果を受けての憲法改正に関する議論である。最初に自分の立場を明確にしておくと、私は憲法は必要に応じて改正すべきであると考えている。別に九条に限ったことではなく、しかし九条も明確に含んでいる。
なぜか。それは、憲法も含めた法などというものは、所詮はルールを書き表したものに過ぎないと思っているからである。ルールにはいろいろな存在意義があると思うし、ルールを予め表明しているということは非常に重要なことである。トルコのエルドアン大統領が死刑を復活してクーデターの首謀者に対して適用しようとしているようだが、こんな罪刑法定主義というか遡及効を無視したような暴挙が許されていいはずがない。
しかしながら、憲法に関してはその最大の目的といえるのは国家権力の制限であろう。国家権力は時として暴走し、それは結果的に国民の利益に反する行動をとる場合がある。その最たるものが国際紛争について戦争という手段に訴えることである。戦争は国民誰もが望んでいないのに起こってしまうことがあるため、そういう状況が、少なくとも日本には招来しないようにするためにも、様々な安全弁を用意しておきたい。その安全弁の一つとして、戦争をしないことを自ら宣言しておくという役割を、憲法は部分的に担っているのである。
ところで、憲法に限らず、法というものは結局のところ国家権力が作り、インプリメントするものである。したがって、憲法が国家権力を制限するというとき、それはすなわち国家権力が内部矛盾するということをもって制限が実効を持つことになる。同じ権力がそのような内部矛盾を宿すということはどういうことだろう。ちょっと考えてみると不思議な気がするのであるが、要するに矛盾しているのは昨日の国家権力と、今日の国家権力なのである。詳しく説明しよう。
戦後すぐ、日本は太平洋戦争が起こるきっかけを自分たちが作ったとして、大いに反省し、その時点で国家権力は何としてでも今後戦争を起こさない国を目指そうとした。しかし、状況が変わればまた日本は戦争への道を進むかもしれない。だが、万が一そういう状況に陥っても、今ここで世界に向けて戦争を起こさないと誓いを立てておけば、戦争実行へのつっかえ棒となるかもしれない。こういう発想である。こういうものを行動経済学の言葉ではコミットメントデバイスという。
したがって、憲法はこの場合時間を超えた監視を国家権力に対して行おうとする試みなのである。しかし、当然のことながらそんなものには限界がある。例えば今の安倍内閣が何らかの理由で、本当に本気で他国と戦争をしようと思えば、それは憲法があろうが何があろうが、戦争をしてしまうに違いないのである。安倍内閣が戦争をしようというときに、吉田茂だか芦田均だかがやってきて「戦争反対」とか、仮に言ったとしても彼らには国家権力に対抗できるだけの権力があるはずもない(もちろん、既に死んでいるわけだし)。
だから、結局憲法だとか言っても戦争の抑止、国家権力の行使に関して現実の抑止力、制限力はないのである。制限力を宿しているのは誰か。それはすなわち国民であり、いかに国家権力が戦争を行いたくても国民が集合的にNOを堅持すれば戦争などできるはずもない。逆に言えば、国民が集合的に戦争を起こしたいのであれば、結局はそれをとどめることはできない。ナショナリズムが第二次世界大戦の原因であり、ヒトラー個人がそれなのではない。
憲法のようなものに頼るのは、自分たちの国家権力に対する不信だけでなく、自分たちが国家権力を将来にわたって満足にチェックすることができないのではないかという自信の無さを示しているともいえる。もっと自分たちの民主主義に自信を持った方がいい。私の主張はそこなので、こういうものに関しては憲法の条文のような、案山子のようなものに頼るべきではないと思っている。
むしろ、憲法の条文のごときは状況の変化に応じて柔軟に変更できるようにしておくことが肝心だろう。要するに、ルールはルールであって、ルールでしかない。何をなすべきなのか、何が目的か、というようなことが一番最初に来るべきである。その規範論にルールが従うというのがあるべき姿であろうと思う。
最近の九条の議論などを見ていると、平和憲法を守れ、アベ政治を許さない、みたいなところで思考停止していることに、私などはむしろ危機感を感じるのである。そのような思考の短絡が、むしろ日本を太平洋戦争に向かわせたのではなかったか。もっと民主主義というものがどういうものなのか、真剣に考える時間を作った方がいいのじゃないか。そのように切に願っている。